青空文庫 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
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「カムパネルラ、僕(ぼく)たちいっしょに行こうねえ」ジョバンニがこう言(い)いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていた席(せき)に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
ジョバンニはまるで鉄砲丸(てっぽうだま)のように立ちあがりました。そして誰(だれ)にも聞こえないように窓(まど)の外へからだを乗(の)り出して、力いっぱいはげしく胸(むね)をうって叫(さけ)び、それからもう咽喉(のど)いっぱい泣(な)きだしました。
もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。そのとき、
「おまえはいったい何を泣(な)いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
ジョバンニは、はっと思って涙(なみだ)をはらってそっちをふり向(む)きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた席(せき)に黒い大きな帽子(ぼうし)をかぶった青白い顔のやせた大人(おとな)が、やさしくわらって大きな一冊(さつ)の本をもっていました。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言(い)ったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果(りんご)をたべたり汽車に乗(の)ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福(こうふく)をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符(きっぷ)をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強(べんきょう)しなけぁいけない。おまえは化学(かがく)をならったろう、水は酸素(さんそ)と水素(すいそ)からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑(うたが)やしない。実験(じっけん)してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔(むかし)はそれを水銀(すいぎん)と塩(しお)でできていると言(い)ったり、水銀(すいぎん)と硫黄(いおう)でできていると言(い)ったりいろいろ議論(ぎろん)したのだ。みんながめいめいじぶんの神(かみ)さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互(たが)いほかの神(かみ)さまを信(しん)ずる人たちのしたことでも涙(なみだ)がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論(ぎろん)するだろう。そして勝負(しょうぶ)がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強(べんきょう)して実験(じっけん)でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験(じっけん)の方法(ほうほう)さえきまれば、もう信仰(しんこう)も化学(かがく)と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理(ちり)と歴史(れきし)の辞典(じてん)だよ。この本のこの頁(ページ)はね、紀元前(きげんぜん)二千二百年の地理(ちり)と歴史(れきし)が書いてある。よくごらん、紀元前(きげんぜん)二千二百年のことでないよ、紀元前(きげんぜん)二千二百年のころにみんなが考えていた地理(ちり)と歴史(れきし)というものが書いてある。
だからこの頁(ページ)一つが一冊(さつ)の地歴(ちれき)の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前(きげんぜん)二千二百年ころにはたいてい本当(ほんとう)だ。さがすと証拠(しょうこ)もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次(つぎ)の頁(ページ)だよ。
紀元前(きげんぜん)一千年。だいぶ、地理(ちり)も歴史(れきし)も変(か)わってるだろう。このときにはこうなのだ。変(へん)な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史(れきし)だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
そのひとは指(ゆび)を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者(がくしゃ)や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広(ひろ)い世界(せかい)ががらんとひらけ、あらゆる歴史(れきし)がそなわり、すっと消(き)えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験(じっけん)は、このきれぎれの考えのはじめから終(お)わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖(くさり)を解(と)かなければならない」
そのときまっくらな地平線(ちへいせん)の向(む)こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの星雲(せいうん)だ。さあもうきっと僕(ぼく)は僕(ぼく)のために、僕(ぼく)のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福(こうふく)をさがすぞ」
ジョバンニは唇(くちびる)を噛(か)んで、そのマジェランの星雲(せいうん)をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福(こうふく)なそのひとのために!
「さあ、切符(きっぷ)をしっかり持(も)っておいで。お前はもう夢(ゆめ)の鉄道(てつどう)の中でなしにほんとうの世界(せかい)の火やはげしい波(なみ)の中を大股(おおまた)にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符(きっぷ)を決(けっ)しておまえはなくしてはいけない」
あのセロのような声がしたと思うとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹(ふ)き自分はまっすぐに草の丘(おか)に立っているのを見、また遠くからあのブルカニロ博士(はかせ)の足おとのしずかに近づいて来るのをききました。
「ありがとう。私はたいへんいい実験(じっけん)をした。私はこんなしずかな場所(ばしょ)で遠くから私の考えを人に伝(つた)える実験(じっけん)をしたいとさっき考えていた。お前の言(い)った語はみんな私の手帳(てちょう)にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢(ゆめ)の中で決心(けっしん)したとおりまっすぐに進(すす)んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談(そうだん)においでなさい」
「僕(ぼく)きっとまっすぐに進(すす)みます。きっとほんとうの幸福(こうふく)を求(もと)めます」ジョバンニは力強(ちからづよ)く言(い)いました。
「ああではさよなら。これはさっきの切符(きっぷ)です」
博士(はかせ)は小さく折(お)った緑(みどり)いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪(てんきりん)の柱(はしら)の向(む)こうに見えなくなっていました。
ジョバンニはまっすぐに走って丘(おか)をおりました。